メタファーでよくわからなくなったはなし
- 作者: George Lakoff,Mark Johnson
- 出版社/メーカー: University of Chicago Press
- 発売日: 2003/04/15
- メディア: ペーパーバック
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おひさしぶりです。
このところすっかりこの日記から遠のいておりました。
多忙ゆえです。卒論ゆえです。
しかし1週間ほど前になんとか第1稿を教授に提出しまして、ようやくこの日記をぐだぐだと書く精神的余裕が出ました。
まだ完成ではなく、これから第2稿、3稿と修正を重ねて1月下旬に提出するのですが、とりあえず現段階で18,000/20,000文字ですので勝てる計算ではあります。
一見順調そうですが、実際は非常にここまで大変でした。(そりゃ大学生はみんなそう言うかもしれないけど…)
今日は卒論で一番混乱して最終的に放棄してしまったメタファーの話をしますね。
続きを読む太宰治『斜陽』と蛇というモチーフ
今日は王道中の王道、太宰治の『斜陽』の話をしたいと思います。
数年前に頭の1/3だけ読んで、何があったかは忘れましたが読み切らないまま中断してしまっていたんですよね。
敗戦直後の没落貴族の家庭にあって、恋と革命に生きようとする娘かず子、「最後の貴婦人」の気品をたもつ母、破滅にむかって突き進む弟直治。滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は、昭和22年発表されるや爆発的人気を呼び、「斜陽族」という言葉さえ生み出した。同時期の短篇『おさん』を併収。
(表紙より)
専門が外国文学なので最近はもっぱら翻訳文学を読むことがほとんどで、この『斜陽』でひさしぶりに日本文学に触れましたが….
いやはや、太宰の書く文の美しさにぎゅーーっと引き込まれてしまいました。
翻訳を悪く言うつもりは一切ないのですが、やはり文豪の作品を母語で読めるというのはすばらしいですね。
今日は「蛇」というモチーフに着目して簡単にブックレポートを書き残しておこうと思います。(いま鋭意執筆中の卒論もモチーフに関するものなので…)
続きを読む辺境の19世紀末と恋―クヌート・ハムスン『ヴィクトリア』を読みました
こんにちは、タチバナです。
本日は先日の猛烈な台風21号による停電の中、懐中電灯の光のもとで読み終えた本、クヌート・ハムスンの『ヴィクトリア』についてお話ししたいと思います。
「愛に似たものは世界にふたつと存在しない」──城の令嬢と粉屋の息子、幼なじみのふたりをしだいに隔てる階層の壁。世紀末ノルウェーの森で、秘められた思いと幻想が静かに燃える。大自然の中から突如として現れ、北欧に新ロマン主義を巻き起こした大地の作家クヌート・ハムスン(1859―1952)の、もっとも美しい恋愛小説。
タイトルも作者名も全く知らなかったのですが、訳者が数少ない北欧文学の翻訳者として知られる冨原眞弓先生(本来のご専門はフランス哲学だそうです)でしたので、これは読まなければ!と思い手に取りました。
私、なんとなく北欧の作品が好きなのです。
続きを読む尊厳ある生と死―ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』を読みました
こんにちは、タチバナです。
実家に帰ってからおよそ2週間弱が経ちまして、最近彼氏とテレビ電話をしたところ、
「あんた健康的な顔になったな…」
と心底ほっとしたように言われました。
落ち過ぎた体重を着実に取り戻しつつあります。
『ダロウェイ夫人』
今日のブックレポートはヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』です。
私の研究対象がモダニズム期の人なので、とりあえずウルフを読んでおこうと思い手に取った次第です。
- 作者: バージニアウルフ,Virginia Woolf,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/05/11
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6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。
(裏表紙より)
作品・作者概要
原題はMrs Dalloway。
第一次世界大戦後間もないロンドンのある1日を、ダロウェイ夫人ことクラリッサ・ダロウェイを主人公に据えながら、「意識の流れ」という画期的な手法を用いて描いていきます。
この「意識の流れ」(stream of consciousness)というのは、3人称の地の文に、特に何の注釈もなくそのまま語り手の主観的な感情や思考が入り込んでくる書き方。
人間の、絶え間なく流れていく思考をそのまま書き取ろうとします。
もちろん、(人間ですので)飛躍もいっぱい。
主として20世紀モダニズム文学で用いられた手法で、『ダロウェイ夫人』はその代表作として知られています。
ストーリー自体は決して大きな起伏があるわけではないので、ちょっと簡潔に説明するのは難しいですが…
「クラリッサが晩にパーティーを開くために準備をする」という流れを主軸に置きながら、彼女がかつて袖にした男性ピーターや戦争のために精神を病んでしまったセプティマスをはじめとした多くの人々の目線からある1日を描いていきます。
著者のヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882-1941)は英国の女流作家。
モダニズム文学のキーパーソンの1人ともいえる人で、この作品のほか『オーランドー』Orlandoなどで知られています。
「個性ある死」の再建
数年前に大学の英文学の授業で、探偵小説を読んでいたことがありました。
その授業は単なる英語の購読にとどまらず文学的なアプローチの仕方を学ぶことのできる、非常に興味深いものだったのですが、特に印象に残っているお話に
というものがあります。
先生は理由として以下の2点を挙げてらっしゃいました。
WWIを経て多くの人の無個性な死を目の当たりにしたことにより
①人の死が身近になり、記号として死を描くことができるようになった
②「個性ある死」を再建し、個人の尊厳を取り戻したいという感情が生まれた
当時のメモが手元にないので不確かですが、おそらく笠井潔さんの『探偵小説論』によるものだと思います。(先生の発言内容につきましても記憶が曖昧ですので、もしかしたら多少の間違いがあるかもしれません)
このおはなしを、私は『ダロウェイ夫人』を読みながらふと思い出しました。
主人公クラリッサがパーティーの準備をするのがこの物語の主な軸ですが、それと同時進行で、セプティマス・ウォレン・スミス夫妻の様子も描かれています。
セプティマスはWWIの兵役のために精神を病んでしまっており、夫婦仲もぎくしゃくしています。
意味の分からない独り言を言ったり、自殺すると言い出したりするセプティマスと、それに困り切ってしまっている妻ルクレーツィア。
ルクレーツィアはセプティマスを名医のところへ連れていくなど、なんとか彼を支えようとするのですが、最終的にセプティマスは窓から飛び降りてしまいます―
クラリッサは物語の終盤、晩のパーティーで彼の自殺を耳にします。
彼女にとって彼は名前も知らないような赤の他人。
しかしその話を聞いた時、彼女にはまるで彼が自分の分身のように思えるのです。
クラリッサはとの自殺した青年をとても近しく感じた。彼がやりおおせ、身を投げ捨てたことを嬉しく思った。
と。
その一方で、夫リチャードからバラの花をプレゼントされたクラリッサが、こんなことを思うシーンがあります。
世間は「クラリッサ・ダロウェイはだめなやつだ」と言うでしょう。アルメニア人より薔薇が大切らしいと言うでしょう。追い立てられ、傷つけられ、凍死寸前のアルメニア人。残虐行為と不正義の犠牲者(と、リチャードが繰り返し言っていた)―そう、わたしはアルバニア人(いえ、アルメニア人だったかしら)にとくに何も感じない。でも、薔薇を愛している(それはアルメニア人を助けることにならないの?)
当時大きな問題となっていたアルメニア大虐殺についての話題が出てきます。
夫リチャードが真面目な議員であることもあり、クラリッサも問題の重要性を頭では理解しているものの、アルメニアだかアルバニアだかわからなくなってしまう程度にどうでもいい話題の様子。
彼女にとって大事なのは遠くの大勢のアルメニア人ではなく目の前の薔薇の花。
アルメニア大虐殺は、彼女にとっては無個性な死そのものなのです。
先ほどの笠井潔さんの論を私がふと思い出したのは、アルメニア大虐殺という無個性な死をさりげなく描いたのちに、セプティマスの自殺を物語におけるひとつの大きな柱として―「個性のある死」として描いているなと感じたためです。
そこにはWWIを経て失われた個々の人間の個性や理性などの人としての尊厳を、「個性のある死」を描くことによってもう一度取り戻したい、という推理小説と同じような潮流があったのではないでしょうか。
クラリッサは、自殺によってセプティマスは自分の大切にしていることを永遠に守り切ったのだと考え、彼の死に彼自身の尊厳ある選択を見出すのです。
(問答無用で死んでいったたくさんのアルメニア人とは対照的に…)
また「意識の流れ」という表現方法も、そのような想いの中で、ひとりひとりの人間の内面を見つめようとした結果選ばれたのかもしれませんね。
その他思ったこと
本当は「日常生活の引力」なども踏まえ、もう少し考えたことを書き残したかったのですが、あまりにも長くなってしまったのでこのあたりでやめようかと思います。
3000字超ですもん。
ストーリーとして刺さるようなものはないけれど、ところどころの鮮烈な文や、文章を通して伝わるロンドンの空気が印象に残る作品でした。
「日常生活の引力は強い」という一文と、上に挙げた薔薇の花のくだりが妙にとても好きです。
- 作者: ヴァージニアウルフ,Virginia Woolf,丹治愛
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2007/08/01
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はじめて担当教授の論文を読みました
期末レポート:詩の和訳と分析
私の所属するゼミでは毎年春学期、学生が各自外国語で書かれた詩を1つずつ選び、それを和訳・解釈してレポートにまとめるというのが慣例になっています。
最終的には年度末に編纂されるゼミ論集に掲載され、以後長年にわたり大学にストックされるものですので、そこそこ大事なレポートです。
今年度のレポート提出〆切は1週間後。
いまはこれに向け、頭をぎゅるんぎゅるんにひねっております。
すでに和訳はおおむね仕上がっているのですが、問題はその解釈。
文学専攻の醍醐味ですねぇ.…!
ゼミ内で唯一院進を目指している身として、なんとしてでもクオリティの高い分析を繰り広げたいところです。
それに、私の選んだ詩は私の卒論に直結するものなんです。
卒論ではある女流詩人の詩をいくつか抽出してごりごりにモチーフ分析する予定なんですが、そのうちの一篇が今回のレポートで扱う詩なんですね。
意地でもよい分析をして「さすがだね~!」って言われたい!
お恥ずかしながら、これまで日本語の論文をちゃんと読んだことがありませんでした
そんなやる気満々の私に、教授が薄い冊子をくれました。
教授ご自身が書かれた論文の抜き刷りです。
テーマは「○○の詩にみられる”△△”の語句をめぐって」というようなものでした。
(○○は詩人の名前、△△は外国語の単語です)
詩のモチーフ批評。まさに私の卒論の方向性と合致します。
そして今学期のレポートにも間違いなく役立つ。
これは読むしかない、ということで、昨日はかなり気合を入れてこの論文を読み込んでいました。
実は私、日本語の論文をちゃんと読むのはこれが初めて。
自分のレポートをそれっぽくするためにつまみ食い程度の参照をしたことや、留学中課題としてムツカシイ理論の論文(英語)を吐くほど読まされたことはあったにはありましたが、日本語で1本、最初から最後まですべて目を通すという経験は今までありませんでした。
大変お恥ずかしい限りですが、初論文、学問してる感があって嬉しくなっちゃいますね。
「言い切り」
教授の書かれた論文を読んで最も印象に残ったのは、「言い切り」の鮮やかさでした。
詩や文学作品を読んで、直観的に「あっ!これはこういうことだ!」と閃くというのは少なからずみんなある経験でしょう。
でもそれはどんなに言葉を尽くして論理を追って説明したとしても、文学というものの性質上、必ずしも疑う余地のない「絶対」にはなれないんじゃないかと思います。
とはいえ、A→B→C…と順を追って論を進めていく中で、
「もしかしたら違う解釈もあるかもだけれどおそらくAです。そうすると確証はないですがBが成り立ちます。となると邪推かもしれないですがCがあり得ます」
なんて書くわけにもいきません。
筆者がやたら自身無さげな文って、読者もどうしたらいいかわかんなくなっちゃいますし。
ここで鍵になってくるのが「言い切り」だと感じました。
それはつまり、
- その作品に携わるひとりのプロとして、読者を導く意思を持つこと。
- 論拠を丁寧に(丁寧すぎるくらいに)並べた上で、自信をもって言い切りをすること。
- 自分があくまで主観と独自のコンテクストを持つ1人の読者に過ぎないことを自覚し、「どこからどう見ても完璧な論理立て」という幻想にこだわり過ぎないこと。
こういうことじゃないかなと。
や、わかんないですけどね、この記事3か月後とかに読み返したら恥ずかしすぎて頭抱えそう。
「こいつあほかよ~~~~!!!」ってなってそう。
でもまあとりあえず、今の私の所感としてはこんなかんじです。
レポート、がんばります。