文学生のふんわり金魚日記

文学院進という片道切符を選んでしまったへなちょこ女子大生がふんわり頑張る日記です。文学の中を泳ぎ回れるようになりたい。

尊厳ある生と死―ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』を読みました

こんにちは、タチバナです。

実家に帰ってからおよそ2週間弱が経ちまして、最近彼氏とテレビ電話をしたところ、

「あんた健康的な顔になったな…」

と心底ほっとしたように言われました。

落ち過ぎた体重を着実に取り戻しつつあります。

 

 

『ダロウェイ夫人』

今日のブックレポートはヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』です。

私の研究対象がモダニズム期の人なので、とりあえずウルフを読んでおこうと思い手に取った次第です。

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

 

6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。

(裏表紙より)

 

作品・作者概要

原題はMrs Dalloway

第一次世界大戦後間もないロンドンのある1日を、ダロウェイ夫人ことクラリッサ・ダロウェイを主人公に据えながら、「意識の流れ」という画期的な手法を用いて描いていきます。

この「意識の流れ」(stream of consciousness)というのは、3人称の地の文に、特に何の注釈もなくそのまま語り手の主観的な感情や思考が入り込んでくる書き方。

人間の、絶え間なく流れていく思考をそのまま書き取ろうとします。

もちろん、(人間ですので)飛躍もいっぱい。

主として20世紀モダニズム文学で用いられた手法で、『ダロウェイ夫人』はその代表作として知られています。

 

ストーリー自体は決して大きな起伏があるわけではないので、ちょっと簡潔に説明するのは難しいですが…

「クラリッサが晩にパーティーを開くために準備をする」という流れを主軸に置きながら、彼女がかつて袖にした男性ピーターや戦争のために精神を病んでしまったセプティマスをはじめとした多くの人々の目線からある1日を描いていきます。

 

著者のヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882-1941)は英国の女流作家。

モダニズム文学のキーパーソンの1人ともいえる人で、この作品のほか『オーランドー』Orlandoなどで知られています。

 

「個性ある死」の再建

数年前に大学の英文学の授業で、探偵小説を読んでいたことがありました。

その授業は単なる英語の購読にとどまらず文学的なアプローチの仕方を学ぶことのできる、非常に興味深いものだったのですが、特に印象に残っているお話に

「なぜ推理小説WWI後に盛り上がりを見せたのか」

というものがあります。

先生は理由として以下の2点を挙げてらっしゃいました。

WWIを経て多くの人の無個性な死を目の当たりにしたことにより

①人の死が身近になり、記号として死を描くことができるようになった

「個性ある死」を再建し、個人の尊厳を取り戻したいという感情が生まれた

当時のメモが手元にないので不確かですが、おそらく笠井潔さんの『探偵小説論』によるものだと思います。(先生の発言内容につきましても記憶が曖昧ですので、もしかしたら多少の間違いがあるかもしれません)

このおはなしを、私は『ダロウェイ夫人』を読みながらふと思い出しました。

 

主人公クラリッサがパーティーの準備をするのがこの物語の主な軸ですが、それと同時進行で、セプティマス・ウォレン・スミス夫妻の様子も描かれています。

セプティマスはWWIの兵役のために精神を病んでしまっており、夫婦仲もぎくしゃくしています。

意味の分からない独り言を言ったり、自殺すると言い出したりするセプティマスと、それに困り切ってしまっている妻ルクレーツィア。

ルクレーツィアはセプティマスを名医のところへ連れていくなど、なんとか彼を支えようとするのですが、最終的にセプティマスは窓から飛び降りてしまいます―

 

クラリッサは物語の終盤、晩のパーティーで彼の自殺を耳にします。

彼女にとって彼は名前も知らないような赤の他人。

しかしその話を聞いた時、彼女にはまるで彼が自分の分身のように思えるのです。

クラリッサはとの自殺した青年をとても近しく感じた。彼がやりおおせ、身を投げ捨てたことを嬉しく思った。

と。

 

その一方で、夫リチャードからバラの花をプレゼントされたクラリッサが、こんなことを思うシーンがあります。

世間は「クラリッサ・ダロウェイはだめなやつだ」と言うでしょう。アルメニア人より薔薇が大切らしいと言うでしょう。追い立てられ、傷つけられ、凍死寸前のアルメニア人。残虐行為と不正義の犠牲者(と、リチャードが繰り返し言っていた)―そう、わたしはアルバニア人(いえ、アルメニア人だったかしら)にとくに何も感じない。でも、薔薇を愛している(それはアルメニア人を助けることにならないの?)

当時大きな問題となっていたアルメニア大虐殺についての話題が出てきます。

夫リチャードが真面目な議員であることもあり、クラリッサも問題の重要性を頭では理解しているものの、アルメニアだかアルバニアだかわからなくなってしまう程度にどうでもいい話題の様子。

彼女にとって大事なのは遠くの大勢のアルメニア人ではなく目の前の薔薇の花。

アルメニア大虐殺は、彼女にとっては無個性な死そのものなのです。

 

先ほどの笠井潔さんの論を私がふと思い出したのは、アルメニア大虐殺という無個性な死をさりげなく描いたのちに、セプティマスの自殺を物語におけるひとつの大きな柱として―「個性のある死」として描いているなと感じたためです。

そこにはWWIを経て失われた個々の人間の個性や理性などの人としての尊厳を、「個性のある死」を描くことによってもう一度取り戻したい、という推理小説と同じような潮流があったのではないでしょうか。

クラリッサは、自殺によってセプティマスは自分の大切にしていることを永遠に守り切ったのだと考え、彼の死に彼自身の尊厳ある選択を見出すのです。

(問答無用で死んでいったたくさんのアルメニア人とは対照的に…)

 

また「意識の流れ」という表現方法も、そのような想いの中で、ひとりひとりの人間の内面を見つめようとした結果選ばれたのかもしれませんね。

 

その他思ったこと 

本当は「日常生活の引力」なども踏まえ、もう少し考えたことを書き残したかったのですが、あまりにも長くなってしまったのでこのあたりでやめようかと思います。

3000字超ですもん。

ストーリーとして刺さるようなものはないけれど、ところどころの鮮烈な文や、文章を通して伝わるロンドンの空気が印象に残る作品でした。

「日常生活の引力は強い」という一文と、上に挙げた薔薇の花のくだりが妙にとても好きです。

 

タチバナ 

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

 
探偵小説論序説

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