なぜ大学院まで行って文学をしているのかというはなし
このブログのタイトルにでかでかと掲げているように、私は学部から修士2年の今に至るまで数年間、文学を専門として学生をやっています。
そんな身でこういうことを言うのはとてもお恥ずかしく、実際長年内心コンプレックスとして抱えている点なのですが、私、
正直そんなに読書が好きなわけじゃないんですよね。
さらに言うなら映画も絵画も音楽も、そこまで興味がない。
映画は飛行機の中で暇つぶしに観る程度で、友達に引っ張られて年に1回映画館に行くか行かないかだし、美術館なんて最後に行ったのがいつかわからないし(多分留学中に友達に付き合って行ったのが最後)、音楽に関してはある地域の民俗音楽のことだけを愛していて、それ以外のクラシックなんかはハァというかんじ。
「文化」からほど遠いところで生きている。
読書はね、一応大学院生なので毎日研究の上での必要、もしくは良心の呵責に迫られて文学作品なり理論書なりを読むんですけど、だいたいまあそれで完結しちゃいます。
小・中学生時代は常に読書しているような子供だったんですが、今はめっきりです。
どうなんだろう、一般的な大学生にくらべたら読んでるけど、暇さえあれば読んでいるというタイプではない、ってかんじかな。
世の人の多くは「大学院で文学を研究している」と聞くと「文学・小説が大好きでしかたがない!!」ってタイプの人間を想像しがちだと思うし、実際そういう院生も少なくないんですが、私に限って言えば、文学が好きだから文学を研究してる、というわけじゃないんですよね。
じゃあなんでこの分野で院まで来ているのかというと、
文学研究が好きだから文学を研究している
というのが答えだと思います。
より正確に言えば、文学研究を通して得られるものに強い魅力を感じたから、です。
あくまで未熟者である私個人の現時点での見解なのですが、文学研究に必要なのは「ひらめき」と「説得力」だと思っています。
まず「ひらめき」ですが、これは「(既存のものよりほんの少しでも)"新しくておもしろい何か"を考えだす力」というイメージです。
文学の研究って、たとえば統計や実験を通してデータを集めてそれをまとめる、とか、そういうわけにはいかないじゃないですか。(ほかの学問領域をサゲてるわけじゃないですよ)
また私のような研究の場合は、歴史的な文献をいっぱい集めてきてそれをまとめる、というわけにもいきません。
あくまで個人的にですが、文学研究って「なんらかの数字・資料をまとめる」のではなくて、「自分の頭から何かを生み出す」という作業だと感じるんですよね。
論文には基本的に「自分自身の頭から出てきたこと」しか書けないというか。
まだ誰も発表したことのない何かを、私の頭からどうひねり出すか?
どの作品を選び、どんなテーマ・どんな手法を設定し、どのように読み解き、最終的にどのような結論を導き出すか?
スーパーむずかしいものの、非常に魅力的だと思っています。
(あと、「おもしろい」に関しては完全に私の個人的信条で、普遍的な真理ではなくひとつの可能性を探求している身として、そりゃ自分の冒険がおもしろくなかったら嫌だよね、ってノリでやっています)
「説得力」に関してはそのままです。
私が作品に噛り付き、睡眠時間を犠牲にしながら頭をひねって考え出したことだって、結局「それ、あなたの主観でしょ」と言われたらその通りなんですよ。
文学研究、どこまでいってもおおむね主観です。
でもじゃあ文学の論文の善し悪しとは何かというと、やっぱりその「主観」についてどれだけ読者を納得させられるかという点じゃないでしょうか。
自分自身の主張の論拠をあっちこっちから持ってきたり、文章の構造を工夫したり。
そういうの、人間として生きていく上でめちゃくちゃ大事じゃないですか?
大学4年生の夏にこのブログを開設したころ、私が特に意識していたのはこちらの点で、このブログのタイトル「ふんわり金魚日記」も、「金魚みたいにふわふわと感性と論理のあいだを往き来できるようになりたい」というイメージがあってできています。
学部時代にも血みどろになりながら就活をしてたのですが、いろんな面接を体験するごとに「あっ、私が大事にしてる観念的な何か、全然ちゃんと伝えられてないぞ」って実感した経験があってこの分野での大学院進学を選んだんですよね。
…なんだか今日はほんわか、徒然なるままに文章を書こうと思っていたのに結構ガチになってしまいました。
単純に本の虫出なくても文学研究はできるし、研究というプロセスにすごく意義を感じてるよ、というだけの話です。
まあ、本能でたくさん本を読めないぶん、理性で何とか自分を律さなくてはならないという大変さはあるわけですが…