文学生のふんわり金魚日記

文学院進という片道切符を選んでしまったへなちょこ女子大生がふんわり頑張る日記です。文学の中を泳ぎ回れるようになりたい。

大学院の冬受験について考えるー冬院試のメリット

ご無沙汰しておりました、タチバナです。

12月から1月にかけては卒論で立て込み、そのあとは院試で立て込み、2月はおおむね旅行で立て込み、3月は部活とバイトで立て込み続けて気付けば4月になってしまいました。

そして今は、大学院のもろもろで立て込んでおります。

 

今日は、院試の話をしたいと思います。

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メタファーでよくわからなくなったはなし

 

Metaphors We Live By

Metaphors We Live By

 

おひさしぶりです。

このところすっかりこの日記から遠のいておりました。

多忙ゆえです。卒論ゆえです。

しかし1週間ほど前になんとか第1稿を教授に提出しまして、ようやくこの日記をぐだぐだと書く精神的余裕が出ました。

まだ完成ではなく、これから第2稿、3稿と修正を重ねて1月下旬に提出するのですが、とりあえず現段階で18,000/20,000文字ですので勝てる計算ではあります。

 

一見順調そうですが、実際は非常にここまで大変でした。(そりゃ大学生はみんなそう言うかもしれないけど…)

今日は卒論で一番混乱して最終的に放棄してしまったメタファーの話をしますね。

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太宰治『斜陽』と蛇というモチーフ

今日は王道中の王道、太宰治『斜陽』の話をしたいと思います。

数年前に頭の1/3だけ読んで、何があったかは忘れましたが読み切らないまま中断してしまっていたんですよね。

斜陽 他1篇 (岩波文庫)

斜陽 他1篇 (岩波文庫)

 

敗戦直後の没落貴族の家庭にあって、恋と革命に生きようとする娘かず子、「最後の貴婦人」の気品をたもつ母、破滅にむかって突き進む弟直治。滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は、昭和22年発表されるや爆発的人気を呼び、「斜陽族」という言葉さえ生み出した。同時期の短篇『おさん』を併収。

(表紙より)

 

専門が外国文学なので最近はもっぱら翻訳文学を読むことがほとんどで、この『斜陽』でひさしぶりに日本文学に触れましたが….

いやはや、太宰の書く文の美しさにぎゅーーっと引き込まれてしまいました。

翻訳を悪く言うつもりは一切ないのですが、やはり文豪の作品を母語で読めるというのはすばらしいですね。

 

今日は「蛇」というモチーフに着目して簡単にブックレポートを書き残しておこうと思います。(いま鋭意執筆中の卒論もモチーフに関するものなので…)

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就活が嫌過ぎて香港へ逃亡したはなし

こんにちは、タチバナです。 

今日は最近(?)行った香港旅行の話を書きたいと思います。

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6月下旬、2泊3日で香港・澳門へ旅行してまいりました。

とはいえそのころ私は就職活動の真っただ中。

つまりそう、現実逃避です。

 

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卒論の中間発表におびえています。

表題の通りです。

今月末に卒業論文の中間発表があるので、最近はそれにむけてうごうごしているような状態です。

毎日午前中をだらだら無為に過ごし、昼過ぎから夜の8時まで学生無料のカフェでひたすら文献を読んだり詩の翻訳をしたりその他雑事をこなしたりときどきテーブルにつっぷしてお昼寝したり。

ひたすらそんな毎日が続いています。

そのカフェに通いすぎて、昨日はついに

「あっ今日はメガネじゃなくてコンタクトなんですね!」

とスタッフさんに話しかけられてしまいました。

乞食で申し訳ありません。

 

「本を読んだら記録をつけよう!」

と思って始めたこの日記ですが、なかなかなかなか、一つ記事を生み出すための時間的余裕―というよりむしろ精神的余裕をつくりだすのは容易ではありませんね。

コンスタントに書評本の感想を記事にあげられている方々は非常に尊敬します。

こころがつよい。

 

とりあえず、今月中には読み終えておきたい本を以下に挙げます。

私自身にはっぱをかけるためです。

これらについてまた記事として痕跡を残せるようにがんばりますね。

今までずっと物語ばかり読んできた人間なので、大変おはずかしながら、学術系の文書を読むことに関しては牛歩です。

 

詩と認知

詩と認知

 
文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

 
待ちのぞむ魂: スーデルグランの詩と生涯

待ちのぞむ魂: スーデルグランの詩と生涯

 

 

タチバナ

 

辺境の19世紀末と恋―クヌート・ハムスン『ヴィクトリア』を読みました

こんにちは、タチバナです。

本日は先日の猛烈な台風21号による停電の中、懐中電灯の光のもとで読み終えた本、クヌート・ハムスン『ヴィクトリア』についてお話ししたいと思います。

ヴィクトリア (岩波文庫)

ヴィクトリア (岩波文庫)

 

「愛に似たものは世界にふたつと存在しない」──城の令嬢と粉屋の息子、幼なじみのふたりをしだいに隔てる階層の壁。世紀末ノルウェーの森で、秘められた思いと幻想が静かに燃える。大自然の中から突如として現れ、北欧に新ロマン主義を巻き起こした大地の作家クヌート・ハムスン(1859―1952)の、もっとも美しい恋愛小説。

タイトルも作者名も全く知らなかったのですが、訳者が数少ない北欧文学の翻訳者として知られる冨原眞弓先生(本来のご専門はフランス哲学だそうです)でしたので、これは読まなければ!と思い手に取りました。

私、なんとなく北欧の作品が好きなのです。

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尊厳ある生と死―ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』を読みました

こんにちは、タチバナです。

実家に帰ってからおよそ2週間弱が経ちまして、最近彼氏とテレビ電話をしたところ、

「あんた健康的な顔になったな…」

と心底ほっとしたように言われました。

落ち過ぎた体重を着実に取り戻しつつあります。

 

 

『ダロウェイ夫人』

今日のブックレポートはヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』です。

私の研究対象がモダニズム期の人なので、とりあえずウルフを読んでおこうと思い手に取った次第です。

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

 

6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。

(裏表紙より)

 

作品・作者概要

原題はMrs Dalloway

第一次世界大戦後間もないロンドンのある1日を、ダロウェイ夫人ことクラリッサ・ダロウェイを主人公に据えながら、「意識の流れ」という画期的な手法を用いて描いていきます。

この「意識の流れ」(stream of consciousness)というのは、3人称の地の文に、特に何の注釈もなくそのまま語り手の主観的な感情や思考が入り込んでくる書き方。

人間の、絶え間なく流れていく思考をそのまま書き取ろうとします。

もちろん、(人間ですので)飛躍もいっぱい。

主として20世紀モダニズム文学で用いられた手法で、『ダロウェイ夫人』はその代表作として知られています。

 

ストーリー自体は決して大きな起伏があるわけではないので、ちょっと簡潔に説明するのは難しいですが…

「クラリッサが晩にパーティーを開くために準備をする」という流れを主軸に置きながら、彼女がかつて袖にした男性ピーターや戦争のために精神を病んでしまったセプティマスをはじめとした多くの人々の目線からある1日を描いていきます。

 

著者のヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882-1941)は英国の女流作家。

モダニズム文学のキーパーソンの1人ともいえる人で、この作品のほか『オーランドー』Orlandoなどで知られています。

 

「個性ある死」の再建

数年前に大学の英文学の授業で、探偵小説を読んでいたことがありました。

その授業は単なる英語の購読にとどまらず文学的なアプローチの仕方を学ぶことのできる、非常に興味深いものだったのですが、特に印象に残っているお話に

「なぜ推理小説WWI後に盛り上がりを見せたのか」

というものがあります。

先生は理由として以下の2点を挙げてらっしゃいました。

WWIを経て多くの人の無個性な死を目の当たりにしたことにより

①人の死が身近になり、記号として死を描くことができるようになった

「個性ある死」を再建し、個人の尊厳を取り戻したいという感情が生まれた

当時のメモが手元にないので不確かですが、おそらく笠井潔さんの『探偵小説論』によるものだと思います。(先生の発言内容につきましても記憶が曖昧ですので、もしかしたら多少の間違いがあるかもしれません)

このおはなしを、私は『ダロウェイ夫人』を読みながらふと思い出しました。

 

主人公クラリッサがパーティーの準備をするのがこの物語の主な軸ですが、それと同時進行で、セプティマス・ウォレン・スミス夫妻の様子も描かれています。

セプティマスはWWIの兵役のために精神を病んでしまっており、夫婦仲もぎくしゃくしています。

意味の分からない独り言を言ったり、自殺すると言い出したりするセプティマスと、それに困り切ってしまっている妻ルクレーツィア。

ルクレーツィアはセプティマスを名医のところへ連れていくなど、なんとか彼を支えようとするのですが、最終的にセプティマスは窓から飛び降りてしまいます―

 

クラリッサは物語の終盤、晩のパーティーで彼の自殺を耳にします。

彼女にとって彼は名前も知らないような赤の他人。

しかしその話を聞いた時、彼女にはまるで彼が自分の分身のように思えるのです。

クラリッサはとの自殺した青年をとても近しく感じた。彼がやりおおせ、身を投げ捨てたことを嬉しく思った。

と。

 

その一方で、夫リチャードからバラの花をプレゼントされたクラリッサが、こんなことを思うシーンがあります。

世間は「クラリッサ・ダロウェイはだめなやつだ」と言うでしょう。アルメニア人より薔薇が大切らしいと言うでしょう。追い立てられ、傷つけられ、凍死寸前のアルメニア人。残虐行為と不正義の犠牲者(と、リチャードが繰り返し言っていた)―そう、わたしはアルバニア人(いえ、アルメニア人だったかしら)にとくに何も感じない。でも、薔薇を愛している(それはアルメニア人を助けることにならないの?)

当時大きな問題となっていたアルメニア大虐殺についての話題が出てきます。

夫リチャードが真面目な議員であることもあり、クラリッサも問題の重要性を頭では理解しているものの、アルメニアだかアルバニアだかわからなくなってしまう程度にどうでもいい話題の様子。

彼女にとって大事なのは遠くの大勢のアルメニア人ではなく目の前の薔薇の花。

アルメニア大虐殺は、彼女にとっては無個性な死そのものなのです。

 

先ほどの笠井潔さんの論を私がふと思い出したのは、アルメニア大虐殺という無個性な死をさりげなく描いたのちに、セプティマスの自殺を物語におけるひとつの大きな柱として―「個性のある死」として描いているなと感じたためです。

そこにはWWIを経て失われた個々の人間の個性や理性などの人としての尊厳を、「個性のある死」を描くことによってもう一度取り戻したい、という推理小説と同じような潮流があったのではないでしょうか。

クラリッサは、自殺によってセプティマスは自分の大切にしていることを永遠に守り切ったのだと考え、彼の死に彼自身の尊厳ある選択を見出すのです。

(問答無用で死んでいったたくさんのアルメニア人とは対照的に…)

 

また「意識の流れ」という表現方法も、そのような想いの中で、ひとりひとりの人間の内面を見つめようとした結果選ばれたのかもしれませんね。

 

その他思ったこと 

本当は「日常生活の引力」なども踏まえ、もう少し考えたことを書き残したかったのですが、あまりにも長くなってしまったのでこのあたりでやめようかと思います。

3000字超ですもん。

ストーリーとして刺さるようなものはないけれど、ところどころの鮮烈な文や、文章を通して伝わるロンドンの空気が印象に残る作品でした。

「日常生活の引力は強い」という一文と、上に挙げた薔薇の花のくだりが妙にとても好きです。

 

タチバナ 

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

 
探偵小説論序説

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