文学生のふんわり金魚日記

文学院進という片道切符を選んでしまったへなちょこ女子大生がふんわり頑張る日記です。文学の中を泳ぎ回れるようになりたい。

辺境の19世紀末と恋―クヌート・ハムスン『ヴィクトリア』を読みました

こんにちは、タチバナです。

本日は先日の猛烈な台風21号による停電の中、懐中電灯の光のもとで読み終えた本、クヌート・ハムスン『ヴィクトリア』についてお話ししたいと思います。

ヴィクトリア (岩波文庫)

ヴィクトリア (岩波文庫)

 

「愛に似たものは世界にふたつと存在しない」──城の令嬢と粉屋の息子、幼なじみのふたりをしだいに隔てる階層の壁。世紀末ノルウェーの森で、秘められた思いと幻想が静かに燃える。大自然の中から突如として現れ、北欧に新ロマン主義を巻き起こした大地の作家クヌート・ハムスン(1859―1952)の、もっとも美しい恋愛小説。

タイトルも作者名も全く知らなかったのですが、訳者が数少ない北欧文学の翻訳者として知られる冨原眞弓先生(本来のご専門はフランス哲学だそうです)でしたので、これは読まなければ!と思い手に取りました。

私、なんとなく北欧の作品が好きなのです。

続きを読む

尊厳ある生と死―ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』を読みました

こんにちは、タチバナです。

実家に帰ってからおよそ2週間弱が経ちまして、最近彼氏とテレビ電話をしたところ、

「あんた健康的な顔になったな…」

と心底ほっとしたように言われました。

落ち過ぎた体重を着実に取り戻しつつあります。

 

 

『ダロウェイ夫人』

今日のブックレポートはヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』です。

私の研究対象がモダニズム期の人なので、とりあえずウルフを読んでおこうと思い手に取った次第です。

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

 

6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。

(裏表紙より)

 

作品・作者概要

原題はMrs Dalloway

第一次世界大戦後間もないロンドンのある1日を、ダロウェイ夫人ことクラリッサ・ダロウェイを主人公に据えながら、「意識の流れ」という画期的な手法を用いて描いていきます。

この「意識の流れ」(stream of consciousness)というのは、3人称の地の文に、特に何の注釈もなくそのまま語り手の主観的な感情や思考が入り込んでくる書き方。

人間の、絶え間なく流れていく思考をそのまま書き取ろうとします。

もちろん、(人間ですので)飛躍もいっぱい。

主として20世紀モダニズム文学で用いられた手法で、『ダロウェイ夫人』はその代表作として知られています。

 

ストーリー自体は決して大きな起伏があるわけではないので、ちょっと簡潔に説明するのは難しいですが…

「クラリッサが晩にパーティーを開くために準備をする」という流れを主軸に置きながら、彼女がかつて袖にした男性ピーターや戦争のために精神を病んでしまったセプティマスをはじめとした多くの人々の目線からある1日を描いていきます。

 

著者のヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882-1941)は英国の女流作家。

モダニズム文学のキーパーソンの1人ともいえる人で、この作品のほか『オーランドー』Orlandoなどで知られています。

 

「個性ある死」の再建

数年前に大学の英文学の授業で、探偵小説を読んでいたことがありました。

その授業は単なる英語の購読にとどまらず文学的なアプローチの仕方を学ぶことのできる、非常に興味深いものだったのですが、特に印象に残っているお話に

「なぜ推理小説WWI後に盛り上がりを見せたのか」

というものがあります。

先生は理由として以下の2点を挙げてらっしゃいました。

WWIを経て多くの人の無個性な死を目の当たりにしたことにより

①人の死が身近になり、記号として死を描くことができるようになった

「個性ある死」を再建し、個人の尊厳を取り戻したいという感情が生まれた

当時のメモが手元にないので不確かですが、おそらく笠井潔さんの『探偵小説論』によるものだと思います。(先生の発言内容につきましても記憶が曖昧ですので、もしかしたら多少の間違いがあるかもしれません)

このおはなしを、私は『ダロウェイ夫人』を読みながらふと思い出しました。

 

主人公クラリッサがパーティーの準備をするのがこの物語の主な軸ですが、それと同時進行で、セプティマス・ウォレン・スミス夫妻の様子も描かれています。

セプティマスはWWIの兵役のために精神を病んでしまっており、夫婦仲もぎくしゃくしています。

意味の分からない独り言を言ったり、自殺すると言い出したりするセプティマスと、それに困り切ってしまっている妻ルクレーツィア。

ルクレーツィアはセプティマスを名医のところへ連れていくなど、なんとか彼を支えようとするのですが、最終的にセプティマスは窓から飛び降りてしまいます―

 

クラリッサは物語の終盤、晩のパーティーで彼の自殺を耳にします。

彼女にとって彼は名前も知らないような赤の他人。

しかしその話を聞いた時、彼女にはまるで彼が自分の分身のように思えるのです。

クラリッサはとの自殺した青年をとても近しく感じた。彼がやりおおせ、身を投げ捨てたことを嬉しく思った。

と。

 

その一方で、夫リチャードからバラの花をプレゼントされたクラリッサが、こんなことを思うシーンがあります。

世間は「クラリッサ・ダロウェイはだめなやつだ」と言うでしょう。アルメニア人より薔薇が大切らしいと言うでしょう。追い立てられ、傷つけられ、凍死寸前のアルメニア人。残虐行為と不正義の犠牲者(と、リチャードが繰り返し言っていた)―そう、わたしはアルバニア人(いえ、アルメニア人だったかしら)にとくに何も感じない。でも、薔薇を愛している(それはアルメニア人を助けることにならないの?)

当時大きな問題となっていたアルメニア大虐殺についての話題が出てきます。

夫リチャードが真面目な議員であることもあり、クラリッサも問題の重要性を頭では理解しているものの、アルメニアだかアルバニアだかわからなくなってしまう程度にどうでもいい話題の様子。

彼女にとって大事なのは遠くの大勢のアルメニア人ではなく目の前の薔薇の花。

アルメニア大虐殺は、彼女にとっては無個性な死そのものなのです。

 

先ほどの笠井潔さんの論を私がふと思い出したのは、アルメニア大虐殺という無個性な死をさりげなく描いたのちに、セプティマスの自殺を物語におけるひとつの大きな柱として―「個性のある死」として描いているなと感じたためです。

そこにはWWIを経て失われた個々の人間の個性や理性などの人としての尊厳を、「個性のある死」を描くことによってもう一度取り戻したい、という推理小説と同じような潮流があったのではないでしょうか。

クラリッサは、自殺によってセプティマスは自分の大切にしていることを永遠に守り切ったのだと考え、彼の死に彼自身の尊厳ある選択を見出すのです。

(問答無用で死んでいったたくさんのアルメニア人とは対照的に…)

 

また「意識の流れ」という表現方法も、そのような想いの中で、ひとりひとりの人間の内面を見つめようとした結果選ばれたのかもしれませんね。

 

その他思ったこと 

本当は「日常生活の引力」なども踏まえ、もう少し考えたことを書き残したかったのですが、あまりにも長くなってしまったのでこのあたりでやめようかと思います。

3000字超ですもん。

ストーリーとして刺さるようなものはないけれど、ところどころの鮮烈な文や、文章を通して伝わるロンドンの空気が印象に残る作品でした。

「日常生活の引力は強い」という一文と、上に挙げた薔薇の花のくだりが妙にとても好きです。

 

タチバナ 

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

 
探偵小説論序説

探偵小説論序説

 

 

真木悠介『気流の鳴る音』を読みました

こんにちは、先日のバイト代6万円が振り込まれてハッピーなタチバナです。

今まで2万円/月くらいの労働しかしてこなかったので、私としてはなかなか頑張った感があります。 

院の入学金くらいは自分で準備したいところですねぇ。

 

彼氏曰はく「俺の人生を変えた本」

さて、本の話をしましょう。

私が最近読んだのは真木悠介先生の『気流の鳴る音』です。

 

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

 

 「知者は“心のある道”を選ぶ。どんな道にせよ、知者は心のある道を旅する。」アメリカ原住民と諸大陸の民衆たちの、呼応する知の明晰と感性の豊饒と出会うことを通して、「近代」のあとの世界と生き方を構想する翼としての、“比較社会学”のモチーフとコンセプトとを確立する。

(裏表紙より)

かつてアメリカの人文学者カストロカスタネダは、メキシコ北部に住むヤキ族の老人ドン・ファンの生きる世界を、4冊の著作を通して紹介しました。

この『気流の鳴る音』はその四部作を解釈し、現代日本社会に生きる我々にもわかりやすく伝えるものです。

4つの象限から、順を追ってドン・ファンの世界に迫っていきます。

著者の真木さんの本名は見田宗介で、現在は東京大学の名誉教授をされている社会学者の先生だそうです。

 

私がこの本を手にしたのは、最近ブックオフのセールでこの本を入手した彼氏に「ほい」と押し付けられたからでした。

彼氏いわく、

「これは俺が浪人中に読んで衝撃を受けた本だからあんたにも読んでほしい。

この本が俺の思考の基礎をつくっている。この構造を学んでくれ」と。

ホゥそれなら読んでみようと思い今に至ります。

 

 読んだ感想としましては、まず何より

「著者は非常に頭のよい人なんだなぁ」

と漠然と思いました。

まず彼氏が言っていたように、構造が非常に巧みです。

我々にはなかなか容易に理解し得ないドン・ファンの世界観を4つのステップ(象限)にわけて解説してくれるのですが、その分け方・順の追い方がとても良かったのではないかなと思います。

その章立ては以下の通り。

I カラスの予言―人間主義の彼岸

II 「世界を止める」―<明晰の罠>からの解放

III 「統禦された愚」―意思を意思する

IV 「心のある道」―<意味への疎外>からの解放

(目次より)

この章立てにより、

”我々が通常縛られている人間世界から一度飛翔する”

という行為の後に、ともすればそのまま行方を見失ってしまいそうになるところを、

”再び地上に舞い戻り「美しい道をしずかに歩む」”

という着地点・行く先まで指し示すことに成功している点が巧みだナァと思います。

ドン・ファン自身が自分の生を通して実践していることなので、まあ当然と言えばそうなのかもしれませんが…

 

また文章の構造そのもの以上に、私は著者が、これだけの構造を生み出すに至るまでにどれだけの研究を積み、どれだけの解釈を試みたのだろうかという部分に想いを馳せてしまいました。

ドン・ファンカスタネダの四部作に対して、一つの分析対象という認識を超えて、おそらく大変真摯に、あたたかく向き合っているのを(僭越ながら)感じます。

私は文学徒だからこう認識してしまうのかもしれませんが、なんというか、「文学的なあたたかな知性」みたいなものにあふれているような…

途中から文学作品の分析を読んでいるような心持でいました。

理性の点だけでなく感性の点でも、大変頭の良い人だなぁ、と。

 

私も斯様な分析を、百分の一くらいでもできるようになりたいものです。

 

以上真木悠介著『気流の鳴る音』の感想でした。 

知性が詰まった本で、学問へのやる気がギュンと増しますね。

がんばります。

いやはや、これを浪人中に読んで感銘受けてた彼氏のかしこさよ...

 

タチバナ

ドン・ファンの教え (新装版)

ドン・ファンの教え (新装版)

 
気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

 

 

大都会で古本を求め歩いたはなし

 

少し間があいてしまいました。

こんにちは、ただいま夏休み真っ盛り、実家に戻っておりますタチバナです。

ここ1年ほどで体重がかなり減ってしまったためか、両親や親戚から「もっとご飯食べなさい」「2㎏増えるまで実家にいなさい」などお叱りの言葉をいただきまして、毎日あれもこれもとおいしいご飯をたくさん食べさせてもらっています。

ありがたいおはなしです。

 

渋谷大古本市

さて、今日は東京で古本市に行ったお話をしたいと思います。

 

つい先日まで、私は所用のため大都会東京におりました。

私としてはあまり愉快でない用事のために東京滞在を余儀なくされていたのですが、おかげさまで東京に住んでいる恋人や友人に会うことができ、さらに古本市に行くこともできたので、まあ悪くはない数日間でした。

 

私が行った古本市というのは第27回 東急百貨店東横店 渋谷大古本市というもの。

渋谷駅すぐの東急百貨店の一角にて、8月の7日から14日まで開催されていました。


私が購入したのは岩波文庫が6冊。

計850円程度だったと思います。

※なおお恥ずかしながら、私は決して古本上級者ではなく、本の初版云々にはさしてこだわりがありません。単純に「新品で本を買えない貧乏学生だから」古本を買い求めております...

 

その中でも特に気になっているのが、アンリ・バルビュスの『クラルテ』

実はタイトルも著者名も聞いたことすらなかったのですが、なんとなく私の卒業論文に遠くで絡まるような気がしてぱっと買ってしまいました。

前情報や先入観一切なしの状態で本を一冊ぽんと買えるのは古本だからこそですね。

普段はお財布の事情で綿密な選別が必要になってしまいがちなので...

 

同じくニーチェ『悲劇の誕生』も、「卒論のために多少勉強しなきゃな~」と思って購入しましたが、一緒にいた彼氏に

「いやあんたニーチェ単体で勉強してもしゃーないで、その時代や周辺図を理解せな」

とご指摘をいただきました。まあそうですよねぇ。

道のりは長そうです。


ちなみに同行していた彼氏は『哲学・論理用語辞典』『東西哲学思想辞典』という大変いかつい古書を購入していました。

哲学科卒らしいチョイスで良いですね。

家に帰るなり楽しそうに辞典を頭から読み始めていました。

 

ブックオフのセール

ブックオフのセールにも行って参りました。

「や、ブックオフなんか全国どこでもあるやろ(笑)」

と思われるかもしれませんが、なかなかそうでもないんですよね。

少なくとも私が下宿している地域からはなかなかアクセスが難しいんです。

ですので今回東京訪問に際して必ずブックオフに行こうと決めておりました。

かもたまたま全品20%オフのセールが重なったのでハッピーです。

 

購入したのは全部で5冊。

例によって岩波文庫3冊と、評判は聞いていたものの未読だった歴史書(?)の上下巻です。

 

この中で特に楽しみにしているのはアンドレ・ジッドの『背徳者』。 

ジッドは中学生の頃『狭き門』を読んだのが大変印象にのこっていまして、そのつながりで今回この作品手を伸ばしました。

わくわくです。

 

このときは5冊で1300円程度だったと思います。

ちなみに彼氏は8000円分ほど哲学や歴史のむつかしそうな本を買い込んでいました。

 

 

…というわけで、文庫とはいえ東京で11冊も古本を買い込んでしまいました。

これだけの本を抱えて帰省するのは、重量的に失敗だったなと思いました。重かったです…

 

これから実家でのんびり読みすすめまして、またこちらの日記にレビューを上げようかと思っております。

 

タチバナ

 

アカデミアへのあこがれと留学と挫折のはなし

f:id:tachibanayun:20180803155213p:plain

 

就活をわざわざ経た上でなぜ院試を選ぶに至ったのかという話をしたいと思います。

 

もともと私は高校生の時分から、「院まで行って学問をしたい」と言っていました。

これは決して高尚な志うんぬんの話ではなく、女子高生のふんわりとしたアカデミアへのあこがれ程度の話です。

とはいえあこがれというのは強いものでして、それを追って私はなんだかんだ世間的にはいわゆる有名大学と呼ばれるところへ入学し、たのしそうな授業おもしろそうな授業なんだか教授がスゴそうな授業を気の赴くままに選択しては、学問のキラキラした部分を見つめ感嘆のため息をつく、というような大学時代を送ってきました。

私にとっての学問って、ある種のエンターテイメントだったんですよね。

 

それを崩したのが留学でした。

以前の記事で私は「大学4年生」と自己紹介した気がしますが、実は大学への在籍は5年目。

約10か月程度海外の大学に交換留学していたため、在学期間が延びています。

そしてこの留学、地獄でした。毎日ド鬱で泣いてばかりいました。

まず授業がキツイ。それまでずっと「優等生」としてやってきた私には耐えられないような屈辱と挫折でした。

それから、ディスカッションやレポート、エッセイなど自分の意見を構築することを求められることがものすごく多くて、これが大変苦手でした。

私、それまで日本では、教授たちのすごいお話をワァ~~♡と聞いて、それをもとにふんわり自分の身の回りのことに置き換えてみたり、自分の心の引き出しに綺麗にしまって、ときどき取り出してニヤニヤしながら眺めたり、ほんとにその程度しかしてこなかったんですよね。

でもそれは留学先では通用しなかった。

授業に出席するたび「この論文はみんな理解してると思うけど、それを踏まえてあなたはどう思うの?」とディスカッションを求められるし、期末のレポートもまた然り。

別にこれって日本においてもそこまで珍しい形式ではないと思うんですが、少なくとも私には、このタイプのディスカッションを授業毎にしたり、このタイプのレポートを1つの学期に3本も4本も書くのは初めてでした。

たいへん、しんどかった。

 

そんな地獄のような留学を通して、私は何より学問に向き合うことの厳しさに絶望してしまいました。

それまでは「学問が好きだから院に行く」と迷いなく思っていたのですが、それはあくまで学問をエンターテイメントとして消費する側の目線。

一方で「院に行く」ということは、

学問に向き合い、地道きわまりない作業を繰り返し、ほんのちょっとだけ他人と差異化された自分の意見を構築し、学問のわずかな1歩に貢献する、

すなわち「学問を積み上げていく側になること」だと思います。

私は留学中にその厳しさを目の当たりにし、挫けてしまいました。

外国語文献を読むのがしんどい。

自分の意見を構築するのがしんどい。

明確に文章にまとめるのがしんどい。

「あれ、私これ院行くなんて無理じゃない??私、怠惰だしついでに頭悪くない??」

日本に帰ったらちゃんと就活をしよう、と思いました。

 

しかし結局、泥沼化した就活の末に、私は院進学を選びました。

(院試に受かればの話ですが...)

就活して内定をもらってたくさん悩む中で、

「結局人間どの道を選んで必ずしんどい思いをするわけだし、

『何がしんどくて何がしんどくないか』よりも

『どういうしんどさの中で生きることを選ぶのか』の方がよっぽど大事なのでは?」

と思うに至り、そこでやっぱり私は、

「学問のしんどさの中でもう少しがんばってみたいし、がんばらなきゃいけない」

と感じたためです。

それに、私の将来の夢、「知性と品のあふれるおばあちゃん」なんです。

それなら院かな、と。

院に行って、知性と品の畑を作る。野菜や花の育て方を学ぶ。

それから普通に就職することになっても、家庭菜園をもりもり続けていけるような土壌を作りたいな、と思っています。

 

がんばらなきゃなぁ。

キラキラ優秀院生目指します。

 

タチバナ

 

はじめて担当教授の論文を読みました

f:id:tachibanayun:20180806020639p:plain

期末レポート:詩の和訳と分析

私の所属するゼミでは毎年春学期、学生が各自外国語で書かれた詩を1つずつ選び、それを和訳・解釈してレポートにまとめるというのが慣例になっています。

最終的には年度末に編纂されるゼミ論集に掲載され、以後長年にわたり大学にストックされるものですので、そこそこ大事なレポートです。

今年度のレポート提出〆切は1週間後。

いまはこれに向け、頭をぎゅるんぎゅるんにひねっております。

すでに和訳はおおむね仕上がっているのですが、問題はその解釈。

文学専攻の醍醐味ですねぇ.…!

ゼミ内で唯一院進を目指している身として、なんとしてでもクオリティの高い分析を繰り広げたいところです。

それに、私の選んだ詩は私の卒論に直結するものなんです。

卒論ではある女流詩人の詩をいくつか抽出してごりごりにモチーフ分析する予定なんですが、そのうちの一篇が今回のレポートで扱う詩なんですね。

意地でもよい分析をして「さすがだね~!」って言われたい!

 

お恥ずかしながら、これまで日本語の論文をちゃんと読んだことがありませんでした

そんなやる気満々の私に、教授が薄い冊子をくれました。

教授ご自身が書かれた論文の抜き刷りです。

テーマは「○○の詩にみられる”△△”の語句をめぐって」というようなものでした。

(○○は詩人の名前、△△は外国語の単語です)

詩のモチーフ批評。まさに私の卒論の方向性と合致します。

そして今学期のレポートにも間違いなく役立つ。

これは読むしかない、ということで、昨日はかなり気合を入れてこの論文を読み込んでいました。

実は私、日本語の論文をちゃんと読むのはこれが初めて。

自分のレポートをそれっぽくするためにつまみ食い程度の参照をしたことや、留学中課題としてムツカシイ理論の論文(英語)を吐くほど読まされたことはあったにはありましたが、日本語で1本、最初から最後まですべて目を通すという経験は今までありませんでした。

大変お恥ずかしい限りですが、初論文、学問してる感があって嬉しくなっちゃいますね。

 

「言い切り」

教授の書かれた論文を読んで最も印象に残ったのは、「言い切り」の鮮やかさでした。

 

詩や文学作品を読んで、直観的に「あっ!これはこういうことだ!」と閃くというのは少なからずみんなある経験でしょう。

でもそれはどんなに言葉を尽くして論理を追って説明したとしても、文学というものの性質上、必ずしも疑う余地のない「絶対」にはなれないんじゃないかと思います。

とはいえ、A→B→C…と順を追って論を進めていく中で、

「もしかしたら違う解釈もあるかもだけれどおそらくAです。そうすると確証はないですがBが成り立ちます。となると邪推かもしれないですがCがあり得ます」

なんて書くわけにもいきません。

筆者がやたら自身無さげな文って、読者もどうしたらいいかわかんなくなっちゃいますし。

 

ここで鍵になってくるのが「言い切り」だと感じました。

それはつまり、

  1. その作品に携わるひとりのプロとして、読者を導く意思を持つこと。
  2. 論拠を丁寧に(丁寧すぎるくらいに)並べた上で、自信をもって言い切りをすること。
  3. 自分があくまで主観と独自のコンテクストを持つ1人の読者に過ぎないことを自覚し、「どこからどう見ても完璧な論理立て」という幻想にこだわり過ぎないこと。

こういうことじゃないかなと。

や、わかんないですけどね、この記事3か月後とかに読み返したら恥ずかしすぎて頭抱えそう。

「こいつあほかよ~~~~!!!」ってなってそう。

でもまあとりあえず、今の私の所感としてはこんなかんじです。

 

レポート、がんばります。

 

タチバナ

内定を放り投げ、文系院進を決めるにあたって

f:id:tachibanayun:20180731014220p:plain

 

つい昨日、内定を辞退しました。

 

タチバナは、現在ぴちぴちの大学4年生。

ですのでここ数か月間はずっと、人並みに汗と涙を流しながら就活前線に立っておりました。

泣き虫なので涙の量は人並み以上だったかもしれません。

最終面接を5,6社連続で落とされたり、

6月半ばで持ち駒を全て失ったり、

全てが嫌になって香港に逃亡したり、

熱中症により面接で日本語がまともに話せなくなったり、

グランフロントの前で号泣したり…

想像の数倍苦戦を強いられながらようやっと、7月頭に初めての内定をいただきました。

どの質問にもまっすぐに、正直に答えた末にいただいた内定ですので、それまで否定され続けた自分を拾い上げてもらえたようで本当にうれしかったのを覚えています。

 

しかしその貴重な貴重な内定を、昨日辞退してしまいました。

辞退するにあたっては大変悩みましたし、なんなら就活中以上に泣いたかもしれません。

せっかくもらった内定ですし、文系院進なんかしたら今以上に就活が難しいことになりそうですし。

でもやっぱり、就活をしながら芽生えた

もう少し学問をやりたいな」「いま専門にしている文学をもっと掘り下げたいな」

という気持ちを捨て切ることができませんでした。

 

気付きたくなかったのに気付いてしまったこと

 

世の学生の大半はみんな、就活を通していろいろな会社や人に会って、

「自分はあの業界が向いてるな」

「こういう仕事をしてみたいな」

「あの人みたいになりたいな」

「この会社だいすき!」

とか、そういうものが多少なりとも醸成された末に就職されていくんだと思います。

私もそれを目指していました。

しかし何を間違ったのか、私はその過程で、

「私はじっくり考えるのが好きだな」

「文学がやりたいな」

「教授みたいになりたいな」

「大学だいすき!」

になってしまった。何この欠陥??

「就職しなきゃ内定取らなきゃ」という焦りとは裏腹に、

私はどんどん”就職に適さない”自分の本心みたいなものを目の当たりにするようになりました。

 

最終的に、私はいただいた内々定をお返しし、文学で院を目指すことに決めました。

決め手となったのは、

「私がもしスーパーリッチな家庭の生まれだったら、たとえ手元に国家公務員の内定が有ろうと外銀の内定が有ろうと総合商社の内定が有ろうと某京海上日動の内定が有ろうと、絶対に院に進むだろうな」

とふと思ったことでした。

私の実家は決してスーパーリッチとは言えませんが、それでも文系(しかも文学)院進学というハイリスクの極みのような選択を力強く応援してくれる両親がいます。

もう迷う理由はないんじゃないかな、と思いました。

むしろ両親が「やりたいことやれよ」と応援してくれてるのに、私が勝手に「や、両親に悪いから…」ってやりたいことを諦めたらもう誰も得しない説ありますもんね。

 

今後のこととこの日記のこと

 

就活にかまけている間に、夏の院試の申込期間はとうに過ぎ去っていました。

ですので私が受けるのは冬の院試です。

落ちたら一発人生が詰みかねない冬の院試です。フゥ~~~~!

これからいっぱい勉強しなきゃなと思います。

本読んで、語学やって、それからできるだけクオリティ高い卒論書いて…

 …とはいえ実はまだ私、まずどこの大学院を受けるのかすら定かではないようなフワッフワの状態です。

まずはそこからですね。進路、スーパー曖昧模糊。

 

 この日記は、そんな頭の緩い大学生たる私タチバナが院試にむかってがんばり、それがうまくいけばその後は文系院生として研究とお勉強ををしていく様子を綴るものです。

お暇でしたらお付き合いくださいませ。

 

タチバナ